夕方5時、テレビをつけるとセーラー服の女の子たちが所狭しと動き回っていた——1980年代半ば、『夕やけニャンニャン』を観て育った方なら、あの熱気は今でも体が覚えているはずです。その最初期からスタジオにいたのが、会員番号6番の樹原亜紀さん。長身でどこか飄々としていて、歌よりもモノマネで笑いを取ってしまう、ちょっと不思議なポジションのメンバーでした。卒業後は芸能界からすっと姿を消し、「あの子は今どこに?」と長く語られてきた一人です。実は彼女、海を渡っていました。この記事では、樹原さんの全盛期から現在までを、確認できた情報だけで丁寧に追いかけます。

01樹原亜紀のプロフィール

名前
樹原亜紀(きはら あき)
本名
亜紀・ムール(結婚後の姓)とされる
生年月日
1969年3月30日(2026年8月現在57歳)
出身地
神奈川県
血液型
AB型
身長
公称169cm(のちに実際は173cmだったと本人が明かしている)
おニャン子クラブ会員番号
6番
活動期間
1985年4月1日加入/1987年3月30日卒業
現在の拠点
オランダ・ロッテルダム

生年月日と卒業日を見比べてみてください。1987年3月30日、つまり18歳の誕生日ちょうどにおニャン子クラブを卒業しているんです。なんとも彼女らしい、きれいな区切り方だと思いませんか。

02全盛期の活躍――夕やけニャンニャンの最初期メンバー

初回放送から画面にいた「6番」

おニャン子クラブは、1985年4月1日にスタートしたフジテレビ系『夕やけニャンニャン』から生まれたグループです。樹原さんは、その記念すべき初回放送から出演していた最初期メンバーの一人。会員番号6番という若い数字が、彼女がどれだけ最初から中心にいたかを物語っています。

番組は毎週月曜から金曜までの帯放送。学校が終わった子どもたちが、ランドセルを放り出してテレビの前に座る——そんな習慣を全国につくってしまった番組でした。その画面の中に、彼女はほぼ毎日いたわけです。今の感覚で言えば、毎日ライブ配信に出続けているようなもの。当時の出演者たちの体力とテンションは、本当に凄まじいものがあったはずです。

長身とコミカルさで異彩を放つ

グループの中で樹原さんが担っていたのは、いわゆる正統派アイドルの役どころではありませんでした。公称169cmという当時としてはかなりの長身で、メンバーが並んだときには一目で見つけられる存在。しかもキャラクターは、可愛らしさで押すというより、笑いを取りにいくタイプでした。

一部の資料では、彼女はグループ内の「三大コミカル担当」の一人として紹介されています。アイドルグループでこのポジションを引き受けるというのは、実はかなりの度胸が要ることです。可愛く映りたい年頃に、あえて崩す役を選ぶ。そこには本人なりの計算というより、素の性格がそのまま出ていたように見えます。

鉄板だったモノマネ

樹原さんといえば、これを外すわけにはいきません。俳優・高島忠夫さんのモノマネです。「イェ〜イ!」という、あの独特の明るい掛け声。番組でもライブでも、彼女が出てくればこれ、というくらいのお約束ネタになっていました。

ファンにとっては合言葉のようなもので、後年のイベントでも「あれをやってほしい」という期待が必ず起きるほど。10代の女の子が確立したネタとしては、驚くほど息が長いですよね。40年近く経っても覚えられているモノマネというのは、それだけで一つの功績だと思います。

社会現象の中心にいた2年間

おニャン子クラブは1985年7月5日に「セーラー服を脱がさないで」でレコードデビューし、その後は「じゃあね」「およしになってねTEACHER」などヒットを連発。メンバーからは新田恵利さん、国生さゆりさん、渡辺美奈代さん、渡辺満里奈さんら次々とソロデビュー組が生まれ、日本の芸能界そのものを塗り替えていきました。

樹原さんはソロで前に出るタイプではありませんでしたが、その渦の真ん中に最初から最後まで居続けた一人です。1985年から1987年という、日本のアイドル史でもっとも密度の濃い2年間を、10代半ばで駆け抜けたことになります。

03卒業とその後の歩み

18歳の誕生日に、さっと去った

1987年3月30日、樹原さんは第5回卒業式でおニャン子クラブを卒業します。グループ自体も同年9月に解散へ向かっていく時期で、多くのメンバーがソロ活動やタレント業へと進んでいきました。ところが樹原さんは、その流れに乗りませんでした。

のちのインタビューで彼女は、卒業のときには「おニャン子は十分」という気持ちが強く、違う景色を見たい、自由になりたいという思いでいっぱいだったと語っています。そもそもモデル出身で、アイドルという仕事そのものに強い興味があったわけではなかったとも明かしています。つまり彼女にとって、おニャン子クラブは目的地ではなく、通過した2年間だったんですね。

書く側にまわった3年間

卒業後の樹原さんが選んだのは、意外にもフリーライターの道でした。『宝島』『オリコン』『ブルータス』といった雑誌でコラムやレビューを執筆していたと伝えられています。3年ほどこの仕事を続けたそうです。

これ、なかなかできることではありません。数か月前まで誌面で「取材される側」だった人が、今度は原稿を書く側に回るわけです。しかも並んでいる媒体名を見ると、当時のカルチャー誌の中でも骨のあるラインナップ。芸能人の余技という感じではなく、本気で書き手として立とうとしていたことが伝わってきます。

イギリス留学、そしてアジアへ

ライター業を経て、樹原さんはイギリスに留学します。さらにその後はバックパッカーとしてアジア各地を巡ったといいます。1990年代前半、女性が一人でバックパックを背負ってアジアを回るというのは、今よりずっとハードルの高い選択でした。

芸能界を離れ、書く仕事も一区切りつけ、地図を持って世界へ出ていく。「違う景色が見たい」という卒業時の言葉を、彼女は本当にそのまま実行していたわけです。

オランダ人アーティストとの結婚

旅の先で樹原さんが出会ったのが、オランダ人のニューメディアアーティスト、Geert Mul(ヘールト・ムル)さんでした。二人は結婚し、彼女の生活拠点はオランダへ。出産を機に子育てを中心とした生活に入り、現在は2児の母として、港湾都市ロッテルダムで暮らしています。

  • 1985年4月『夕やけニャンニャン』初回放送から出演。おニャン子クラブ会員番号6番として活動を開始。
  • 1985年7月「セーラー服を脱がさないで」でレコードデビュー。社会現象の渦中へ。
  • 1986年4月ユニット「ニャンギラス」のシングル「私は里歌ちゃん」が発売される。
  • 1987年3月30日18歳の誕生日に第5回卒業式でおニャン子クラブを卒業。
  • 1987年〜1990年頃フリーライターとして『宝島』『オリコン』『ブルータス』などで執筆。
  • 1990年代イギリス留学を経て、バックパッカーとしてアジア各地を旅する。
  • その後オランダ人ニューメディアアーティストのGeert Mulさんと結婚し、オランダへ移住。
  • 2017年10月週刊誌のインタビューに応じ、ロッテルダムでの生活と当時の心境を語る。
  • 2025年7月5日おニャン子クラブ結成40周年コンサートにオランダから参加。

04ニャンギラスという異色ユニット

「歌えない4人」が組んだユニット

おニャン子クラブには数多くの派生ユニットがありました。うしろ髪ひかれ隊、うしろゆびさされ組——そしてもう一つ、明らかに毛色の違うのがニャンギラスです。メンバーは立見里歌さん、樹原亜紀さん、名越美香さん、白石麻子さんの4人。1986年に結成されました。

コンセプトからして正統派アイドルユニットではなく、コミカルさと勢いで押し切るタイプ。1986年4月1日発売のデビューシングル「私は里歌ちゃん」は、タイトルからしてもう普通ではありません。ユニットはシングル2枚を残し、グループの解散とともに活動を終えました。

「私は里歌ちゃん」が残したもの

この曲、リアルタイムで聴いていた方にとってはかなり印象的な一曲だったのではないでしょうか。正統派の楽曲が並ぶおニャン子の作品群の中で、明らかに空気が違う。ふざけているようでいて、ちゃんとポップスとして成立している——このバランス感覚が、40年経った今も語り継がれている理由だと思います。

樹原さんはこのユニットの中でも、長身とモノマネという武器を存分に使える立ち位置にいました。正統派アイドルの枠に収まらなかったからこそ、彼女はニャンギラスという居場所を得たとも言えます。

40周年ライブでの完全体復活

そしてこのニャンギラスが、2025年の結成40周年コンサートで復活します。実は2017年に立見さん・白石さんが出演したライブでも「私は里歌ちゃん」は披露されていましたが、そのときは2人。2025年は樹原さんが加わり、より当時に近い編成での披露となりました。会場で観たファンの中には、「ようやくニャンギラスの音になった」と感激した人もいたようです。

052026年現在の樹原亜紀

オランダから、数十年ぶりのステージへ

2026年時点で確認できる樹原さんの最も新しい表舞台での活動は、2025年7月5日に東京・世田谷区民会館(せたがやイーグレットホール)で開催された「おニャン子クラブ結成40周年コンサート」への出演です。デビュー曲「セーラー服を脱がさないで」の発売からちょうど40年という節目の日でした。

ステージに立ったのは、樹原さん(会員番号6番)のほか、新田恵利さん、富川春美さん、立見里歌さん、白石麻子さん、横田睦美さん、布川智子さん、我妻佳代さん、杉浦美雪さんら。会場には約900人のファンが詰めかけたと報じられています。樹原さんは、この日のためにオランダから帰国しての参加でした。

報道によれば、事前の全体リハーサルすら十分に取れず、振り付けや立ち位置の確認は本番当日という、ほぼぶっつけ本番の進行だったといいます。それでも会場は総立ち。全22曲にアンコールの「じゃあね」まで、まさに同窓会そのものの熱気に包まれたそうです。

ファンの皆さんも、いい意味で、歌唱力とか段取りとか、私たちに期待してないでしょう? 出典:Smart FLASH 2025年7月9日(新田恵利さんのコメント)

この言葉、いいですよね。上手にやることが目的ではなく、集まって歌えることそのものが目的。樹原さんが海を越えて参加したのも、きっと同じ気持ちからでしょう。

ロッテルダムでの暮らし

樹原さんの生活の拠点は、引き続きオランダ・ロッテルダムです。2017年のインタビュー時点では、出産を機に子育て中心の生活に入り、2児の母として暮らしていると語っていました。夫のGeert Mulさんは現地で活動するニューメディアアーティストです。

なお一部の資料では、現在はロッテルダムの日本食レストランで料理人として働いているとも記されています。ただしこれは本人の発言として確認できたものではないため、あくまで「そうした情報もある」という程度に受け止めるのが正確でしょう。いずれにせよ、日本の芸能界からは完全に離れた場所で、生活者としての日々を積み重ねているのは確かです。

メンバーとの関係は途切れていない

長く公の場に出ていなかった樹原さんですが、かつてのメンバーとの縁が切れていたわけではありません。40周年コンサートに海外から駆けつけたこと自体が、その何よりの証拠です。司会進行を務めた立見さんは、メンバー同士が日常的に連絡を取り合っていることを明かしており、樹原さんもその輪の中にいる一人と見られます。

40年という時間は、10代だった女の子たちを50代半ばの大人にしました。それでも当日のステージでは、樹原さんの例のモノマネがファンの「お約束」として迎えられたと報じられています。会員番号6番のキャラクターは、ちゃんと生き残っていたわけです。

2026年現在、次の予定は

2026年8月時点で、樹原さん個人の新たな出演情報や、おニャン子クラブとしての次のコンサート開催は確認できていません。40周年コンサートも「再集結に賛同したメンバーによる1日限りのコンサート」として告知されたもので、シリーズ化の発表はされていないようです。

また、樹原さん本人が運営していることが確認できる公式SNSアカウントも見当たりませんでした。近況を追いかけたい方は、おニャン子クラブ関連のイベント情報や、交流の深い立見里歌さんら現役で活動するメンバーの発信をチェックするのが現実的だと思います。

芸能活動を続けることだけが、その後の人生ではありません。書く仕事を選び、旅に出て、海の向こうで家庭を築く。樹原さんの40年は、むしろ「アイドルを卒業した先」の一つの理想形のようにも見えます。それでいて、40年目の夏には迷わず日本へ飛んできてくれる。この距離感が、なんとも彼女らしいですよね。

06まとめ

会員番号6番・樹原亜紀さんは、おニャン子クラブという巨大な現象の最初期からその中心にいながら、卒業と同時にきっぱりと芸能界を離れた人でした。ライター、留学、アジアの旅、そしてオランダ移住。表舞台から消えたのではなく、自分で選んだ別の道を歩いていた、というのが正確なところです。

樹原亜紀 2026年現在まとめ

  • 1969年3月30日生まれ、神奈川県出身。2026年8月時点で57歳。
  • 1985年4月の『夕やけニャンニャン』初回放送から出演した、おニャン子クラブ会員番号6番。
  • 長身とコミカルなキャラクターで異彩を放ち、高島忠夫さんのモノマネが鉄板ネタだった。
  • 立見里歌さん・名越美香さん・白石麻子さんとユニット「ニャンギラス」を結成し、1986年に「私は里歌ちゃん」を発表。
  • 1987年3月30日、18歳の誕生日に卒業。その後3年ほどフリーライターとして『宝島』などで執筆。
  • イギリス留学とアジアでのバックパッカー生活を経て、オランダ人アーティストのGeert Mulさんと結婚。現在はロッテルダムで2児の母として暮らす。
  • 2025年7月5日、おニャン子クラブ結成40周年コンサートにオランダから参加。2026年8月時点でこれが最新の確認できる表舞台での活動。

40周年コンサートの写真を見ると、緑の衣装に身を包んだ樹原さんが、ごく自然にステージに馴染んでいます。長いブランクを感じさせないその佇まいは、彼女が「アイドルだった過去」を否定も美化もせず、人生の一部としてきちんと抱えてきたからこそのものでしょう。次にあの「イェ〜イ!」が聞ける日が来るかどうかはわかりません。でも、もし41周年、45周年と続く機会があるなら、彼女はきっとまたロッテルダムから飛んできてくれる。そんな予感がしています。